登山と素晴らしい景観の記憶
山を歩いていると、感激もひとしおな素晴らしい景観に恵まれることがある。そして、その想い出は、感激が大きければ大きいほど、記憶の中にしっかりと留め置かれる。
北アルプスの蝶ヶ岳の山稜から見た槍~穂高連峰の山稜は、紺碧の空にくっきりと輪郭を描き、雄大であった。越えてきた常念岳は、もちろん大きく見える。朝日連峰の以東岳の山頂では、今歩いて来た稜線上の道を振り返って見ながら、そこに辿り着くまでの苦労の多かった道程を思いの中で反芻し、こんなにも遠くまで歩いてきたのかと感慨に浸った。そんな遠景に、前泊した大朝日小屋直上の大朝日岳が見えていた。そして、その日の宿泊先である大鳥池の畔のタキタロウ山荘は、重い荷物を背負った身にはまだまだ先であった。
八ヶ岳の硫黄岳山荘裏の稜線から見た夕暮れの雲海は、まるで真綿の絨毯を敷き詰めたようで、そのまま稜線伝いに歩いて行けそうな景観だった。このまま歩いて行きたい、と一瞬不穏な誘惑に駆られるほどだった。翌日は、赤岳を越えて権現岳~編笠山と縦走し、観音平へ下山する長丁場であった。山小屋の出発は、まさに未明である。また、苗場山への小赤沢側からの登山道で展望した秋山郷は、錦繍の絨毯を敷き詰めたような紅葉に彩られ、燃えているようだった。そして、その稜線では、手を振った自分が、円環の光背の中で手を振っているように見えるブロッケン現象にも出会い、非常に不思議な感慨に浸った。
北海道の斜里岳登山では、旧道の沢コースを辿り、渓流シューズ(滑り止めとして靴底にフェルトが貼り付けられている靴)を履いたままで登った山頂からの360度のパノラマの中に、いつもは霧で隠れていることが多い摩周湖の湖面が、遠く小さく見えていた。霧の摩周湖が霧に覆われることもなく見える、誰かが感嘆して叫んだ。また、会津駒ヶ岳の裏手の中門岳では、夕暮れ迫る中、木立のシルエットと湖水の見事な絵のような景色に巡り合えた。そして、湖畔では寂しげにコオロギが鳴いていた。
このように山歩きの素晴らしい景観や音の記憶は、その部分だけが強調され、シンボリックに脳裏に焼きついている。前述した山行の記憶は、いずれも深田久弥が挙げた日本百名山の登頂についてのものである。(因みに、日本百名山は、現在、新潮社から新潮文庫として出版されており、税込みで740円である。)この沢山ある記憶の中から、特筆すべきと思える想い出を、少しずつ繙(ひもと)いて、記録と照らし合わせながら、今後、このブログにUPしていきたいと思う。
でも、できるかなァー。止めたほうがいいみたい。
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