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未明と北日本から (その3)

南北に長い日本列島の北海道から沖縄まで134箇所もあるとされている米軍基地や米軍施設を使用している米国軍に対する、気象に関する情報提供のためなのであろうか。気象庁やNHKは、天気予報を気象情報と呼び習わし、東北北部の秋田県や青森県や岩手県、そして北海道を含む地域を「北日本」と呼称している。

ところで、日本語では、従来、「北日本」という言葉は、新潟県や富山県、石川県などの北陸地方を指す呼称であったのは、この項の(その2)で述べた。気象庁やNHKが、この「北日本」という言葉を、北部日本を指し示す言葉に変えてしまうとは、日本文化や日本語に対する冒涜(ぼうとく)であり、背信行為であることは他のブログ記事でも述べた。以下は、前に述べたことと一部重複するが、再度述べる。

南北に長い日本列島でも、その地域を半分に分ける呼称は、「東日本」と「西日本」である。この境界は、フォッサマグナと言われる糸魚川―静岡構造線であるとされたり、また、家庭に供給される電気の周波数が50Hzと60Hzに分かれる境界に相当するとも言われたりしている。しかし、日本列島を「北日本」と「南日本」という言葉を使って分けることはなかった。そして、NHKの気象情報を聴いていれば分かるが、わざわざ「北日本」という用語を使って、説明する必要がある局面は出てこない。これは、「北日本」という用語を使うと同時に「東日本」や「北海道」、「秋田県」、「青森県」、「岩手県」という地域名や県名なども気象情報の中では使われているからである。

ところが、気象庁やNHKは、この東日本北部の秋田県や青森県や岩手県、そして、北海道を含む日本の北部地域を「北日本」と呼称している。NHKの気象情報では、この項がこのブログにアップされてからは、既成事実でも作ろうとするかのように、「北日本」という用語を頻出させているかのようだ。やたらに「北日本」が出てくるからだ。確かにこれを英語では、”Northern Japan” と表現できようが、それは、「北日本」と訳すのでは無く、「北部日本」と訳すべきであろう。そして、どうしてもこの英語に相当する用語を使うというのであれば、「北部日本」または「日本北部」や、「日本列島北部」を使うべきである。なぜならば、日本語としては、既に北陸地方を指し示す「北日本」という言葉が存在し、長い歴史の中で、既にこの地域の文化にその言葉が深く根ざし、この地域の企業名などにも広く使われてきたからだ。例えば、「北日本新聞社」や「北日本放送」などである。気象庁やNHKが、既にある「日本語」の言葉の意味を壊してはならないだろう。

この英語の翻訳で思い当る節(ふし)がある。それは、Akkii が、かつて使ったことがある研究社発行の “Spoken American English” という英会話テキストに、学生の父親が福島県で簿記学校を経営しているというスキットがあり、そこでは福島県が ”Northern Japan” にあると表現されていたのだ。日本を南北に分ければ、福島県が北部日本になることは納得できる。しかし、これを「北日本」とは訳せないだろう。

今、日本では、気象庁が「予報用語」という縛り(しばり)で、メディアが天気予報で使う報道用語を規制し、言葉の意味を付け替えるなどして、実質的に報道で使われる日本語を変容させていることが問題となっているのだ。この項で問題にした「未明」と「北日本」はその例の一部だ。これはWEB検索で「気象庁 予報用語」とキーワードを入力して調べれば直ぐに分かる。

 つまり、国語を所掌する文部科学省ではなく、国土交通省の外局である気象庁が「予報用語」の規則の中で、日本語の語彙や表現方法まで例示し、規制しているのである。そして、更に問題なのは、NHKはテレビやラジオの放送で、「天気予報」を「気象情報」と呼び習わし、その「気象情報」とニュースを連続させるか、またはそれらを渾然一体として報道し、結果としてニュース報道でも、必然的に気象庁が決めた「予報用語」を使わざるを得ない状況にしているのである。この結果、従来の日本語とは整合性が無い日本語が、ニュース報道で使われる結果となっているのだ。最近、NHK報道から「天気予報」という言葉がめっきり聴けなくなり、代わって「気象情報」という言葉が頻繁に聞こえてくるのだ。ここには、何か意図的な悪意や策謀といったものを感じられるくらいだ。気象庁やNHKに、「国語」を壊させてはならないだろう。

一国の言語政策は、安全保障にも絡む重要な政策課題である。政府は、日本語を監視し、護り、指導する独立した国家機関を設けるべきである。それは、文部科学相の諮問機関である文化審議会の一分科会に国語行政を託するなどの行為は、あまりにも緩過ぎると思うからだ。NHKはじめ、報道で使われる用語を監視し、指導できるくらいの強力な国家機関が必要であると思うのだ。

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未明と北日本から (その2)

「北日本」という言葉は、元来の日本語では新潟県や富山県や石川県などの北陸地方を指し示す言葉であった。この言葉を気象庁は、「予報用語」の縛り(しばり)で、東北地方の北部や北海道を含む地域を指す言葉に変えてしまっているのだ。これは、日本文化や日本語を冒涜(ぼうとく)するとんでもないことだ。

従来の日本語では、秋田県や青森県や岩手県を「北日本」と表現することは無かった。また、「トンネルを抜けると雪国であった」と、ノーベル文学賞を受賞した小説家である川端康成が書いた『雪国』に表現されているように、日本文化の中心であった江戸東京から北に向かうと、「雪国」があり、そこは「北国」であり、「北日本」であったのだ。そしてこの地域は「北日本」と表現されてきたし、今でも「北日本新聞」があり、「北日本製菓」の本拠地がこの北陸地方にあったし、「北日本」を冠している企業名も多いのだ。そのうえ、北陸地方には、「北国」を冠した企業名も多いのだ。

しかしながら、このように「未明」や「北日本」の日本語の意味を気象庁が変えることができて、日本人がいつも耳にする天気予報やニュースで使われる言葉が、これによって変えられてしまうという由々しき結果を招いているのだ。気象庁やNHKの気象情報を良く聴いていると分かるが、どうやら北海道は東日本には入らないようだ。それは、東日本は本州北部までで、東日本の他に北日本があるような表現が頻出しているからだ。そして、日本の国語行政を所掌する文部科学省は、これを黙認しているかのようだ。NHKも黙認しているようだ。むしろ、NHKはこの日本語の語彙の意味を変えてしまうことの共同正犯なのかも知れない。

そのうえ問題なのは、気象庁が規制する「予報用語」やその他の義務教育で使われる「用語」と、文科省が所掌する「国語」の整合性を図ったり、調整したりする機関がないことだ。日本にも、「国語」を監視し、護り、指導する独立した機関が必要である。日本語での表現や表記の基準を遵守するよう指導する機関が必要なのである。安全保障上も、外国からの圧力で日本語を破壊されてはならない。多くの独立国家が持っているような、これらの機能を持つ、独立した「国語センター」が必要である。

さらに、「国語」を神社仏閣や仏像や絵画と同列に論じるべきではない。文化審議会の一分科会に国語を審議させるなど、この国の国語行政は、心許(こころもと)ない。「国語」は、その国の文化の根幹であり、国民のアイデンティテイーの基礎をなす。国語には安定性と普遍性が求められるのだ。大正や昭和に習った国語の「未明」や「北日本」の意味と平成に習ったそれらの意味が違ってはならないからだ。また、天気予報で言う「未明」や「北日本」の意味と、天気予報以外の報道や日常会話で使うそれらの意味が違ってはならないからだ。

 特に「北日本」について言えば、世界には、大西洋からカリブ海にまたがってある「西インド諸島」など、実際のインドとはかけ離れた地域の呼称があり、また、「東南アジア」のインドネシアやシンガポール、マレーシアなどよりも北側の、ネパールやインドやバングラディシュなどを指す「南アジア」という呼称があることを考えるべきだ。その地域の呼称は文化の一部であり、その意味を大事にすべきである。

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未明と北日本から (その1)

日本語では、漢字や語彙が多すぎて外国人の日本語学習者には難し過ぎるから語彙や使用漢字を減らすべきである、などの外国からの意見や圧力で、日本語の語彙や漢字は減らされる方向に動いてきたように思える。

日本語は、外国人の日本語学習者のために有るのではない。また、日本語の表記についての基準は、日本語の外国語への翻訳を簡単にしたり、その翻訳ソフト開発を容易にしたりするためにあるのでもない。

ところで日本では、外国からの圧力により、日本語が大幅に制限されてきた時代があった。それは、米国の占領統治下にあった第二次世界大戦後の数年間である。全ての報道が検閲されてきた。メディアの報道は全て英語に翻訳し、NHKなどのニュース報道は事前検閲を受けてきた。それは、1951年にサンフランシスコ講和(平和)条約が締結されてからも、暫く続いた。

第二次世界大戦中は海軍中尉で情報将校として活躍し、戦後は駐留米軍の翻訳の仕事をしてきた人物を知っている。彼は、その後、外資系企業の法務部長を歴任し、弁護士に転進した。彼から、占領軍であるGHQの検閲のための翻訳にまつわる話をいろいろと聴くことができた。日本の米国による占領統治下では、報道用語が規制され、そこで用いられる日本語での表現が大幅に制限されてきたというのだ。

ところが現在でも、日本は、北は北海道から南は沖縄まで、米軍基地や米軍施設が134箇所もあるとされ、戦後64年も経過していながら、未だ(いまだ)に占領統治下であるような状況にあるのだ。そして、日本語での報道規制が敷かれているような現状がある。

それは日本の国土交通省の下部組織であり、その外局である気象庁が、「天気予報」で使う日本語を「予報用語」として規制し、解説の表現まで規制しているからだ。天気予報で報道が、冬日(ふゆび)に凛々しく輝く秀峰富士の姿を表現することすら規制している。日本語の叙述的表現に使う用語や字句、表現方法まで規制しているのだ。

また、気象庁は現在、気象に関する報道で、深夜午前0時を「夜半」と表現することを禁じて、午前0時から午前3時頃までを「未明」と表現するよう規制し、「夜半頃」や「夜半過ぎ」と表現することすら禁じているのだ。しかし、日本では「午前0時から午前3時頃」は、「草木も眠る丑三つ時(うしみつどき)」と言われる真夜中を含む夜中であり、「未明」ではないだろう。日本語の元来の意味では、「未明」とは、「夜がまだすっかり明けきらない時」(広辞苑)である。つまり、朝方の「夜明け前」を含む、未だ暗い頃を言う言葉だ。そのうえ、「北日本」の意味も気象庁は変えてしまっているのだ。

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破壊工作と民主党マニフェストの瓦解の懸念

マニフェストの元来の意味は「宣言」、「宣言書」だ(参照:広辞苑)。これを選挙戦で掲げられた場合は、「政権公約」と訳す。民主党は、この夏の衆議院議員選挙で素晴らしいマニフェストを掲げて戦った。そして、多くの国民が、このマニフェストを評価し、民主党を支持した結果、民主党が圧勝したのだ。

 しかし民主党は、政権発足後やっと3か月を過ぎたところで、このマニフェスト破りを当然の如く行おうとしているようである。鳩山由紀夫首相は、きのう、ガソリン税等の暫定税率の撤廃をしないで、それを維持することを発表した。それより以前には、高速道路の原則無料化の公約を反故(ほご)にすることも発表している。

民主党は、なぜ、こうも簡単にマニフェストに違反することを行おうとするのであろうか。これでは、非常にイメージが悪い。マニフェストは選挙戦において掲げられた政権公約なのであるから、守ることが求められる。事情が違ったから、御免なさいでは、選挙のためだけにイメージ戦のために掲げられたキャッチコピーと変わらないことになってしまう。

 民主党は、どうしてこの政権公約を履行しようとする姿勢を見せられないのだろうか。これでは、国民は何を信じて政党を選べば良いのか戸惑うであろう。そして、次の選挙戦では、民主党には厳しい目が注がれるであろう。また、それでは民主党の小沢一郎幹事長の言動に対する批判と相俟って、メディアの民主党批判のターゲットとなってしまう。それは、民主党に対抗する勢力側にとっては、望むところであろう。

 これは、民主党がメディアの世論調査結果等や政権を組む他党の言動に踊らされている結果なのであろうか。財源論と政権公約の実行は、次元が違う問題である。政権発足後1年間は、公約実現が優先される政策課題ではないだろうか。普天間飛行場の移設問題も、先が見えない中途半端なままである。

高速道路料金の原則無料化は、世界の先進国の趨勢である。この原則無料化は、長い目で見れば結果的に日本の物流コストを押し下げ、コンクリートから人への投資を推し進める。これに危機感を抱くのは、日本の産業の国際競争力に恐れを抱く海外勢力も存在していることも、忘れるべきではない。今、民主党政権が推し進める日本の郵政の民営化の見直し路線に、意見を言い出す外国勢があるほどである。ここは、日本が繁栄したり、国力を蓄えたりすることに危機感を抱いたり、歓迎していない国家が多いという国際政治の現状を認識すべきだ。

 高速道路を原則無料化にすることは、高速道路の渋滞を招くという意見は、現在、土日、休日に高速道路料金の原則1,000円を実施しているということを考慮しない意見だ。平日も含めて原則1,000円にすれば、渋滞は分散し、緩和されるのではないだろうか。

一部の国民や産業界は、マニフェストに反しても良いというような意見を言ったり、税収が減るからとか、車を使用しないからとか言って、ガソリン税等の暫定税率は撤廃しなくても良いと言ったりするかも知れない。また、高速道路は利用しないので、無料化は必要ないと言うかも知れないし、財源確保のためには、高速道路の有料制は維持すべきだというかもしれない。そしてまた、これが国の財政にとって良いのではと言うかも知れない。

 しかし、そんなことは、マニフェストを掲げる前から分かっていたことである。今、ここで民主党にとって大事なことは、政権公約を守ろうとする姿勢を見せることだ。このままでは、メディアに叩かれ、国民の目線が厳しくなり、多くの国民の支持を失うことが目に見えている。

 民主党が、いかに正論を述べて、国政の健全な運営を模索していようとも、イメージの悪化は避けなければならないだろう。民主党は、メディア戦略が陳腐過ぎるのではないか。正論を述べても、多くの国民を説得することは困難であることは、民主党が長い野党時代を経験していて分かっている筈(はず)である。民主党は、記者会見やテレビの前での演出効果を、もっと考えるべきである。また、反対勢力に対するネガティブ・キャンペーンも排除すべきではないだろう。攻撃は最大の防御なのである。

そして、政府が子育て支援関連の給付金の支給、つまり子供手当てを支給するにも、所得制限は設けるべきである。それは、国民に所得の再配分機能を政府が行うという姿勢を明示することになるからだ。多くの国民は、民主党に格差是正の政策も期待しているのだ。ここは、たとえ政権公約実行に無駄な費用が掛かろうとも、民主党が公約を実行する姿勢を見せなければ、多くの国民は離反していくであろう。

民主党は、他の政党やメディアの術中に嵌って、国民の離反を招くべきではない。そして、この離反を期待している多くの対抗勢力が国内ばかりでなく海外にもあることを忘れてはならない。それらの対抗勢力は、破壊工作を弄しながら、民主党のマニフェストが瓦解していく様を期待して眺めていることであろう。民主党は、政権交代に日本の将来を託した多くの国民の期待を裏切らないように、土性骨(どしょうぼね)を据えて、マニフェストの実効性を確保する方向で、しっかりとやるべきである。

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使用漢字の制限と言語センター

「見る」と「聞く」は、人間の行動の原点だ。今、この2つの動詞につき、日本語では使用する漢字が制限され、表現が狭められている。欧米系の言語である英語やスペイン語などに比べても、その語彙が少なくなるように規制され、制限されているのが気懸かりだ。

(目で)「みる」という動詞に対応する日本語漢字としては。「見る」、「診る」、「観る」、「看る」、「視る」などが挙げられる。また、(耳で)「きく」という動詞に対応する日本語漢字は、「聞く」、「聴く」、「訊く」などが挙げられる。そして、それぞれの使用漢字からは、その動詞の意味が良く分かる。

英語でも(目で)「みる」は、See,Watch,Lookなどに区別されている。また、(耳で)「きく」は、Hear,Listen,Ask などに区別されている。ところが日本語では、この区別をあいまいにして、「見る」や平仮名の「みる」、そして、「聞く」にすべてを委ねているように思われるのだ。最近は、「聞く」では、耳を傾けて聞く場合には、「聴く」も使われるようになったが、これだけでは、まだまだその区別が足りないと思うのだ。「尋ねる」という意味の「訊く」という漢字も使用すべきだ。

この「きく」の漢字の使用を制限することは、日本語での表現力を減退させ、思考力を減衰させてしまう恐れがある。なぜならば、言語は、コミュニケーションの道具であるばかりではなく、思考の道具でもあるからだ。

「訊く」は、「尋ねる」という意味と「糺す(ただす)」という意味が含まれる。前者の「尋ねる」という意味では、英語で言えば、Askに対応する動詞である。道を「きく」場合に、英語では Hear や Listen は使わないだろう。また、先生が学生や生徒に「遅刻した理由を訊く」の「きく」は、「糺す(ただす)」という意味が含まれるのだ。ここには「訊く(きく)」がぴったりだ。

ここは、日本語でもしっかりと、「道を訊く」や「遅刻の理由を訊く」と書くべきであろうし、言葉に出して話す場合にも、この漢字「訊く」を念頭に浮かべて、質問していることを認識すべきであろう。また、そう訓練することによって、この「きく」には無意識の中に「尋ねる」ことや「糺す」ことの認識が生じる。

元来の「やまと言葉」に、表意文字である外来語の「漢字」を日本語に組み入れてきた日本の言語は、その表意文字が大きな領域を占めている。その使用漢字を制限することは、同音異義語が多い表意文字の世界で、思考の混同や混乱を招くことになりかねない。

また、漢字の使用を認めていながら、その「読み」の使用を制限することは、ナンセンスである。文末にくる「無い」や「有る」は、日本語の文の末尾で文意の結論を大きく左右する形容詞や動詞である。これを平仮名で「ない」や「ある」とするよりも、漢字で「無い」や「有る」とした方が一瞬で意味が伝わる。同様に、「覚えやすい」や「覚えにくい」は、「覚え易い」や「覚え難い」と漢字で表現すれば、一瞬の文字認識で確実に文意が伝わる。よって、従来からある「読み」によって漢字の使用を制限すべきではない。それは、その合理的な理由がないからだ。現在は、活版や写植の時代ではないのだ。

次に、「射撃」の「撃」」の漢字に似た「繋」という漢字についてである。この漢字は、「繋ぐ(つなぐ)」や「繋がる(つながる)」などのように、「つなぐ」という基本的な動詞を表す。よって、この漢字も使用を制限すべきではない。この漢字には糸偏が含まれるが、これは日本文化の発達と密接不可分に関連する糸の文化がもたらした漢字である。

この漢字については、「連繋プレー」などの意味が鮮明な語句がある。これは、「連係プレー」や「連携プレー」として表現するよりも、「繋がったプレー」ということで「連繋プレーとしたほうが、「繋ぎ」の野球が得意な「日本の野球」の表現にぴったりであろう。日本は、このところのWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の二連覇も、この「繋ぎ」の野球で勝ち取ったのだ。

そして、日本語の漢字は、日本文化を薫り高くして、表現力豊かにし、「わび」や「さび」まで表現してきてくれたと思う。その漢字には、「薫り」と「香り」の違いや、「匂い」と「臭い」の違いも同音の中に一瞬の内に表現する力があるのだ。「鯉が遡上する」や「俎上の鯉」の「そじょう」も、音は同じでも、漢字が違えは、その意味は鮮明である。字句を見たり、考えたりすれば、その違いは一瞬にして知覚と思考の中に入っていくのである。

よって、漢字の使用の制限には慎重の上にも慎重であるべきであると思う。それは、ここに重ねて述べるが、漢字の使用を制限することは、表現力の減退ばかりでなく、思考力を減衰させてしまう恐れがあるからだ。現在、文部科学省の下部組織である文化審議会で使用漢字のアンケートをとっている。こんな部署で日本文化の重要な基礎を構成し、日本人としてのアイデンティテの重要な根幹をなしている「日本語」をいじらせるべきではないだろう。その国の言語政策は、安全保障にも絡む重要な課題なのだ。

主権国家の殆どは、自国の言語を監視し、守るために、独立した「言語センター」を持っているのだ。日本も、独立した国家機関としての「国語センター」を組織すべきであろう。そして、使用漢字の検証作業は、日本語表記の問題も踏まえ、そこでいろいろな角度から検討した上で、慎重の上にも慎重になすべきであろう。

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師走と雪形

「今日から師走(しわす)」と新聞やテレビで報じられたのは、一昨日だ。師走も今日で3日になってしまった。これからは、「あと幾つ寝るとお正月」となっていくのだろうか。

陰暦の月の呼び方として、12月が師走とされるのには、特別な意味を感じる。師走の語源は、定かではないが、師匠のお坊さんも走り回るほどの忙しい月であるという説がある。陰暦の月の呼び方やその由来をあまり知らなくても、師走が12月であるのは一般に知られていることであろう。1月の睦月(むつき)からはじまった1年も、12月の師走で終わる。

「むきやうさ、みふはなかしし」。これは、古文の学習で陰暦の月の名前を覚えるのに使った語呂だ。なんとなく意味がありそうな響きであるが、格別な意味は無い。しかし、覚えやすくて便利だ。これは、睦月(むつき)、如月(きさらぎ)、弥生(やよい)、卯月(うづき)、皐月(さつき)、水無月(みなづき)、文月(ふみづき)、葉月(はづき)、長月(ながつき)、神無月(かんなづき)、霜月(しもつき)、師走(しわす)の読みの頭1文字を並べたものだ。最後の「しし」と「し」が二つ連なるのは、最後が「師走」であるから、その前は「霜月」となるので、何らの混乱はないだろう。

陰暦の月の名前は、受験のためにだけではなく、教養として覚えておくと便利だ。これは、博物館や記念館などなどを訪ねると、よく「古文書」に接する機会があるからである。これを知っていれば、古文書に「文月廿日」とあれば、旧暦の7月20日であることが分かる。(※「古文書」の読みは「こもんじょ」であり、「こぶんしょ」と読むのは間違いであるので注意。「公文書(こうぶんしょ)」の読み方につられないように!)

ところで、陰暦とは太陰暦ともいう。この暦は、月の動きを基準としていたため、太陽暦とは違って、月の名前と季節にずれが生じた。閏月(うるうづき)があると、1年が13箇月であることもあった。そこで、陰暦が示す季節的な移ろいを補完するものとして二十四節気が編み出された。

しかし、陰暦と同様に中国から輸入された二十四節気も中国での事象を基にしていたため、日本ではストレートには馴染まなかった。そこで、その不便さを解消するために日本独自の「雑節」が編み出されたという。「雑節」とは、八十八夜(はちじゅうはちや)や半夏生(はんげしょう)や二百十日(にひゃくとうか)などである。『茶摘(ちゃつみ』の歌にある「夏も近づく八十八夜」は有名である。この八十八夜は、野にも山にも若葉が茂る頃合いだ。

独自の農耕文化を育んできた日本では、各地で農事暦が作られたり、農歳時記が書かれたり、また、山腹の雪形(ゆきがた)を見たりして、農作業の頃合いを見計らってきたという。これらに関し、各地に伝わる「雪形」を調べたり、雑節などと農事との関連などを調べたりして、研究してみるのも面白いだろう。

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