カテゴリー「文化・芸術」の記事

師走と雪形

「今日から師走(しわす)」と新聞やテレビで報じられたのは、一昨日だ。師走も今日で3日になってしまった。これからは、「あと幾つ寝るとお正月」となっていくのだろうか。

陰暦の月の呼び方として、12月が師走とされるのには、特別な意味を感じる。師走の語源は、定かではないが、師匠のお坊さんも走り回るほどの忙しい月であるという説がある。陰暦の月の呼び方やその由来をあまり知らなくても、師走が12月であるのは一般に知られていることであろう。1月の睦月(むつき)からはじまった1年も、12月の師走で終わる。

「むきやうさ、みふはなかしし」。これは、古文の学習で陰暦の月の名前を覚えるのに使った語呂だ。なんとなく意味がありそうな響きであるが、格別な意味は無い。しかし、覚えやすくて便利だ。これは、睦月(むつき)、如月(きさらぎ)、弥生(やよい)、卯月(うづき)、皐月(さつき)、水無月(みなづき)、文月(ふみづき)、葉月(はづき)、長月(ながつき)、神無月(かんなづき)、霜月(しもつき)、師走(しわす)の読みの頭1文字を並べたものだ。最後の「しし」と「し」が二つ連なるのは、最後が「師走」であるから、その前は「霜月」となるので、何らの混乱はないだろう。

陰暦の月の名前は、受験のためにだけではなく、教養として覚えておくと便利だ。これは、博物館や記念館などなどを訪ねると、よく「古文書」に接する機会があるからである。これを知っていれば、古文書に「文月廿日」とあれば、旧暦の7月20日であることが分かる。(※「古文書」の読みは「こもんじょ」であり、「こぶんしょ」と読むのは間違いであるので注意。「公文書(こうぶんしょ)」の読み方につられないように!)

ところで、陰暦とは太陰暦ともいう。この暦は、月の動きを基準としていたため、太陽暦とは違って、月の名前と季節にずれが生じた。閏月(うるうづき)があると、1年が13箇月であることもあった。そこで、陰暦が示す季節的な移ろいを補完するものとして二十四節気が編み出された。

しかし、陰暦と同様に中国から輸入された二十四節気も中国での事象を基にしていたため、日本ではストレートには馴染まなかった。そこで、その不便さを解消するために日本独自の「雑節」が編み出されたという。「雑節」とは、八十八夜(はちじゅうはちや)や半夏生(はんげしょう)や二百十日(にひゃくとうか)などである。『茶摘(ちゃつみ』の歌にある「夏も近づく八十八夜」は有名である。この八十八夜は、野にも山にも若葉が茂る頃合いだ。

独自の農耕文化を育んできた日本では、各地で農事暦が作られたり、農歳時記が書かれたり、また、山腹の雪形(ゆきがた)を見たりして、農作業の頃合いを見計らってきたという。これらに関し、各地に伝わる「雪形」を調べたり、雑節などと農事との関連などを調べたりして、研究してみるのも面白いだろう。

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異文化の様相(1) 公衆便所・その5

東南アジアなどの国々の水道ホースや水桶に溜め込んだ水で用を足した後に洗浄する方式のトイレは、床が水浸しになっていることが多い。便器は日本の和式と同様に平型で、それを跨ぐ方式である。このタイプで紙を使わずに水を使う訳だから、水は外にこぼれ、周りがビショビショに濡れてしまうのは仕方がないことである。このようなトイレに、底の薄い履物やスニーカーなどの布製の靴で入れば、足まで濡れてしまう。

次に欧米の国々の洋式トイレについてであるが、便座に素肌を触れて腰掛ける訳であるから、あまり気持ちいいものではない。他人がむき出しの素肌を触れて使ったことを考えると、何か使い捨ての紙の便座カバーでもあれば良いだろうが、そういうものは欧米の一般のトイレでは見かけたことがない。

日本では、一部の洋式トイレでは、便座の消毒液や紙の使い捨て便座カバーを備えている場合がある。しかし、欧米の洋式トイレでそこまで丁寧に衛生管理を徹底しているトイレは少ないだろう。

しかし、日本人が良く利用するような有名ブランド商品などを売る店や高級ホテルのトイレには、そういうものが特別にしつらえてある場合があるのかも知れない。

また、トイレット・ペーパーについてであるが、日本では、トイレット・ペーパーと言い、ひと巻きで直径が12~3センチメートルのロールである。しかし、欧米では、多人数か使うトイレのペーパーは、一般にトイレット・ロールと言い、ひと巻きの直径が50センチメートル前後の大判である。ペーパーを引き出すと、紙でできたドラムがガラガラと回転しているように見える。ロール全体がガラガラと回りながら、ペーパーが出てくるのである。

このトイレット・ペーパーの様式一つをとっても、日本文化の繊細さと、欧米文化の大胆さという文化の様相の違いが出ているように思う。

米国の有名観光地、グランドキャニヨン国立公園では、コロラド河が流れる谷底へ下るトレイルに幾つかの公衆便所がある。その洋式トイレの一つに入った時のことであるが、そのあまりの汚さに驚いたことがある。尾籠(びろう)な話ではあるが、洋式便器の内と外に汚物がこぼれて、流れずに溜まっていたのだ。しかし、急を要する用足しの場合には、あれこれ言っていられないので、仕方なしにそれを利用したが、凄く後味が悪かった。

これらを考えただけでも、日本のトイレは、和式、洋式にかかわらず、快適で衛生的に思える。日本の場合には、行政も国民も、公衆衛生についての意識が高いように感じるのだ。これがトイレの衛生管理にも生かされている。

すべての世界を隈なく歩いた訳ではないが、世界各国の公衆便所の中で、日本のものが一番きれいではないかと思うのだ。一般に、よく掃除が行き届いていて、管理が良い。一部の山間地の公園などでは、掃除の手が行き届いていない場合があるが、押しなべてよく管理されていると思う。

臭い話ばかりを続けてきた。この辺で話題を変えたいと思う。次の項からの異文化の様相(2)は、堅い話ではあるが、公衆道徳についてである。

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異文化の様相(1) 公衆便所・その4

日本を除く東アジアの国々には、前の項に述べたような便所の遠回し表現があるのかどうかは知らない。台湾では、確か道路沿いの公衆便所に「厠處」と表示されていたように記憶している。ここのトイレでは使用料は無料であった。

ところで、「厠處」の漢字「厠」は、日本語の訓読みでは「かわや」と読む。そして、「厠」とは、川の上に掛けて作った屋の意で大小便をする所、と広辞苑にはある。昔は、川の上で用を足していたのであろう。また、「處」とは、日本語の漢字の「処」の旧字体で、「所」の意味であるから、解り易い。

余談だが、そのトイレの外側には、洗面台が並んでいて、確か「盥場」などと表現されていた様に記憶している。「盥」とは、日本語では「たらい」のことであり、洗い桶のことである。つまり、洗面器も「たらい」と言うのだ。現在の台湾で使われている漢字は、日本語の旧字体の漢字が多く、日本人には解り易い。これは、中国で現在使われている簡体漢字が解り難くなったのとは、対照的だ。

韓国では、トイレのことを「ファジャンシリ」という。韓国語を知らなくても、大概の観光地の売店などで、“Excuse me, but where is a ファジャンシリ?” のように、英語韓国語混淆(こんこう)で訊(き)くとトイレを教えてもらえる。韓国でも観光地の公衆便所の使用は一般に無料のようだ。

そして、韓国の人たちは一般に、道を尋ねたり、物について質問したりした場合に、大変丁寧に応対してくれる。特に慶州や釜山などの地方都市の人たちが親切だ。道を訊くと、わざわざ先導して教えてくれる程だ。これには、大変かしこまってしまう。「コーマスプニダ」と思わず声が出てしまう。

中国でも、観光地の公衆便所は無料であった。ただし、中国の便所は、大便器を囲う壁はあるものの、その扉(とびら)の上下が開いていて、用を足している姿が外から容易に覗(のぞ)かれてしまうのが多いのだ。

そして、その扉は、前が大きく開いていると思ってそちらを注意していると、裏側も開いているという仕様であった。用を足していたAkkii が気が付くと、裏側から現地ガイドがこちらをじっと見つめているという仕儀(しぎ)であった。しまった、お粗末な一物(いちもつ)を見られてしまったか、と思ったものである。文化の違いと言うものは、恐ろしいものである。まさに異文化である。

なお、東アジアの国々である、台湾や韓国や中国、そして日本の公衆便所が、使用料が無料であることが多いと言う事実は、前々項までで述べた東南アジアや欧米の国々での有料トイレの話は、どうやら東アジアの国々だけには汎用化されえないことを示しているようである。

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異文化の様相(1) 公衆便所・その3

日本語では、便所の表現に古来より様々な言葉が使われてきた。例えば、洗面所、御不浄(ごふじょう)、はばかり、雪隠(せっちん)、厠(かわや)、便所、お手洗い、化粧室、WC、パウダー・ルーム、トイレット、トイレ、などである。この内、トイレやトイレット、パウダー・ルーム、化粧室、お手洗い、洗面所、御不浄、はばかり、雪隠などは、便所というストレートな表現を遠回しに言い表すために、工夫されて使われてきたのだろうか。現在では、外来語から来たトイレが最もポピュラーな表現のように思う。

西欧の代表的な言語、英語でも、ホテルや劇場などの便所のことを遠回しに “REST ROOM” と表現した言葉が使われることがある(ジーニアス英和辞典、大修館書店)。また、洗面所のことを “BATHROOM“とも言う。そして、トイレに行きたいということを、”Nature is calling to me.”などと表現したりする。

この遠回し表現に倣(なら)ってか、外国人の観光客も多い日本の有名観光地、奥日光でも、竜頭の滝の入り口駐車場にあるトイレには、その外壁に“REST ROOM”と表現されている。もちろん、そこは休憩所ではなく、公衆便所なのである。

また、英会話表現で、「トイレはどこでしょうか、トイレをお借りしたいのですが」と言う場合に “I’ve got to go.”  Excuse me, but where can I go? という様に、トイレを明示する言葉を省いた遠回し表現が使われることがある(参照:ジーニアス和英辞典、大修館書店)。

一方、日本語でも、大小便をすることを「用を足す」や「用足しに行く」と遠回しに表現することがある。そして、ハイキングや登山などでは、女性が大自然の中で大小便をすることを、一般に「花を摘む」や「花摘みに行く」などと遠回しに表現したりする。

これは、本来は小便をすることを意味していたのだろうが、女性の用を足す姿からは、大なのか小なのかは判然としない。したがって、大便、小便のいずれの場合も「花を摘む」となったのであろう。また、この方が、自然負荷が大きい大便の場合でも、それを明示しないことで、その恥ずかしさが和らぐのだろう。ちょっと、尾籠(びろう)で臭い話ではあるが・・・。

そして、休憩の時などに、「ちょっと、お花を摘んできま~ス」などのように表現して、岩陰やハイマツ帯の藪(やぶ)の中に分け入ったりする。すると、これを知らない登山の初心者などは、高山植物の花を摘んだりするのはけしからん、と誤解したりすることがあるのだ。

Akkiiも、登山でリーダーを務めていた際に、「こんな所で高山植物の花を摘んで良いのですか」と、その山行に参加していた初心者から訊(き)かれたことがある。その目には明らかに、何で「花を摘んできま~ス」と言うのに、リーダーが注意しないのだ、という批判の光があった。高山植物は保護しなければならないのはもっともだが、実際に「花を摘む」訳ではないのだ。

また、ハイキングや登山中の男性の場合は、小便をすることを「小雉(こきじ)を撃つ」と言ったりする。これは、男性の一物(いちもつ)をキジ撃ちの鉄砲に見立てた、ユーモアを交えての遠回し表現である。一方、大便をすることを「大雉(おおきじ)を撃つ」と言ったり、単に「雉を撃つ」や「雉撃ちに行く」と言ったりする。

それは、「ちょっと、大雉を撃ちたいので先に行っていてください」などのように表現するのだ。こういう場合には、その臭いから逃(のが)れるため、少し先に進んで待つことにする。

なお、大便のことを「糞(くそ)」とも言うが、これをストレートに、「糞(くそ)をしたいので先に行ってください」と表現されては、目に見えるようで臭すぎる。これよりは、先の「大雉を撃ちたい」は、遥かに柔らかく感じる遠回し表現だ。これらの遠回し表現は、アウトドア・アクティビティーのテクニカルタームと言えるだろうか。

以上のことから考えると、洋の東西を問わず、一部には便所や大小便をすることをストレートに表現することが、「はばかられる」という文化がある、ということなのだろうか。面白い現象である。

ところで、日本人男性の街角での立小便は、欧米圏からは奇異に見られて、野蛮人の姿であると捉えられたりしている。また、一般に、日本人は男女を問わず、野山で平気で用を足すことができるが、欧米人は、これを極端に我慢する。

特にハイキングや登山に参加した欧米人の女性の場合は我慢する。本人には凄く苦しいだろうが、トイレのあるところまで我慢するのである。これには驚くばかりだ。文化の違いなのであろう。まさに異文化の様相である。

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異文化の様相(1) 公衆便所・その2

マレーシアのペナン島はジョージタウンにあるランドマーク、65階建ての円筒形の現代的な建物は、コムタという。ここには、最上階近くに展望レストランがあり、その階下にマレーシア政府観光局のペナン支局がある。このペナン支局からもジョージタウンの町並みが一望できる。ここでは、ペナン島案内の日本語版の無料パンフレットやロングステイのためのビザ取得の案内書などを入手できる。

また、ビル内には、ペナン州の州庁も入っている。その他、各種商店やレストラン、ファスト・フードの店なども沢山入っていて賑わっている。マクドナルドも2店舗入っている位だ。つまり、公共性の高い建物なのである。

ところが、このランドマークのコムタのトイレは有料である上に、トイレにはトイレット・ペーパーがない。トイレを覗いてペーパーがないのに気付いたAkkiiは、トイレ使用料を集金していた女性係員にそれを告げて、ペーパーを要求した。するとその係員は、トイレでは紙を使うのは禁止されていると言うのだ。ゴムホースから水を出して、手で洗うのだと言うのである。

そして、トイレにはそのゴムホースがあるのだ。これを使って、用を足した後始末をしたAkkiiは、水流の調整に失敗し、パンツからズボンからビショビショにしてしまった。南国の熱帯であるから、水に濡れてひんやりした感触は心地良い。しかし、見た目にはお漏らししたみたいで極めて格好が悪い。

トイレから出て、女性係員に濡れたズボンを示し、“Its too difficult to wash my ……” と言うと、同情の眼差しながら係員は笑っていた。仕方なく、6階にあるマクドナルドでコーヒーを飲みながら、それが乾燥するまでの時間を稼いだ。気温が高いせいか、乾燥が早い。

タイやマレーシアなどでは、高級ホテルや外国人が詰め掛けるショッピング・モール以外では、公共の建物ですら、ほとんどの便所にトイレット・ペーパーは用意されていない。また、トイレにゴムホースがあるのは良い方で、水桶にヒシャクが置かれた方式も多い。公衆便所の様式が違うのである。

お尻の洗浄は左手使用である。したがって、公衆の目の届くところで、左手で食べ物を掴(つか)んで口に頬張ったり、左手で握手を求めたりすると、これらの国々では軽蔑の眼差しに会うので注意が必要だ。また、左手で子供の頭を触ったり、撫でたりすることは厳禁だ。それは、左手が不浄の手であるということばかりではなく、特にムスリム(イスラム教徒)にとっては、頭は神聖な部位とされており、これに他人が触れることを忌み嫌うからである。日本とこれらの国々では、文化が違うのである。まさに、異文化だ。

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異文化の様相(1) 公衆便所・その1

 「異文化」とは、広辞苑には「生活様式や宗教などが(自分の生活圏と)異なる文化」とある。ところが、「異文化」という言葉は良くないと言う人がいる。これは、いわゆる「言葉狩り」派の主張である。これは、タイの少数民族である「アカ族」の「族」という言葉は差別用語なので、「アカの人びと」と呼ぶべきだ、という主張と軌(き)を一にする。

しかし、言葉は、表現の手段なのであるから、わざわざ「アカ族」という用語で指し示されてきた人たちの呼称を「アカの人びと」に制限したり、「異文化」という言葉を使うことを否定したりして、日本語での表現力を減衰させるべきではない。よって、ここでは、「異文化」という言葉を堂々と使うことにする。

ところで、海外旅行先でトイレに困った人たちが多いと聞く。まず、日本では、無料で使える公衆便所が結構ある。街内でも、デパートや公園などにも無料トイレがある。コンビニエンス・ストアでは、買い物をしなくてもトイレを貸してくれる。また、トイレット・ペーパーは、ほとんどのトイレに用意されている。

 しかし、海外に出かけてみると、トイレがほとんど見当たらなかったり、トイレ使用が有料であったりで、苦労することがある。勢い、ファスト・フード店や、レストランに入って、必要もないメニューを見て、飲食物を注文したりすることもある。西欧の諸国ですらそうだ。日本以外の多くのアジアの国々でもそうだ。 また、トイレット・ペーパーが置いていないのは当たり前だ。

 欧米のガソリンスタンドでは、トイレにがっちりと鍵をかけていたりして、給油したお客にしかトイレを使わせない所が多い。日本とは違う文化だ。

特に困るのは、トイレット・ペーパーを使ってはいけない国々だ。東南アジアに多い。トイレには、お尻の洗浄用に水道蛇口に直結されたゴムホースがあれば良い方で、水桶にヒシャクといった所が多い。これらのトイレの使用方法は、左手を使って、ホースやヒシャクで水をかけ、お尻を洗い流すのだ。南アジア(インドなど)や東南アジアなどでは、左手が、不浄の手と言われる所以(ゆえん)だ。

 このゴムホースの使用方法に慣れないと、下着やズボンやスカートがびしょびしょになってしまう。これらの国々に出かける場合には、風呂場などでシャワーなどを使って練習し、習熟しておくことをお勧めする。シャワーヘッドは、水流を散水から直水に変えられるものは、そのままでも良いが、それが出来ないものは、シャワーヘッドを外し、ホース状にして水を出すと良い。これを使ってお尻を洗うのは、殊の外(ことのほか)難しい。特にズボンを穿(は)いている場合には難しい。

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失敗しない海外ロングステイのために

海外にロングステイを始めると、異文化コミュニケーションの努力をしなければならない。日本と外国は、文化が大きく違う。すぐ近くにある東アジアの国々でもそうだ。東南アジアの国々は、もっと違う。アングロサクソンの文化が色濃いオーストラリアやニュージーランド、カナダなどもそうだ。その結果、ロングステイを始めると、大なり小なり、カルチャーショックを受けることになるのである。

その強烈なカルチャーショックを回避するためには、事前にその異文化の有様を知っておくことが必要である。いろいろな文献を通じて、また、記録映像などを通して、現地に出向かなくてもできる学習方法があるのだ。

ここで注意しなければならないのは、ロングステイのための宣伝用パンフレットや案内本、それにプロモーション・ビデオなど宣伝用ビデオを見ただけでは、本当の学習にはならない恐れがある、ということである。それらの資料は、ロングステイをしたいというモチベーションを高めることを目的に制作され、都合の良いところだけを説明したり、案内したりして、本当の異文化の様相を伝えていない恐れがあるからである。

この学習には、文化人類学や社会人類学的視点から、また、歴史学の視点から、ありのままにその国家や民族の歴史、文化、宗教、社会、政治などについて述べている文献が役に立つ。この文献としては、学際的な観点からの紀行文なども役に立つであろう。ただし、興味本位に書かれた紀行文には注意が必要だ。

そして、その上で、実際にロングステイしたいと思う海外の現地を訪ね、自らが実地に調査し、異文化の様相を検証しておくことが必要だ。そうしておけば、異国でロングステイを始めても、カルチャーショックが小さくて済むであろう。

このロングステイの現地調査には、旅行業者が行うロングステイの下見ツアーや海外旅行ツアーに参加しただけでは、ダメである。それは、そのツアーの目的がロングステイの宣伝であったり、楽しめる海外旅行として企画されたりして、見て不愉快な、本当の現地の異文化に参加者を触れさせない恐れがあるからである。特に下見ツアーの参加者は、本当の異文化の様相を見せられないで、判断を狂わされる懸念があるのだ。

ロングステイを志すロングステイヤーが、これらの異文化の様相を知らないままで、現地で生活を始めたとしたら、カルチャーショックの激震に見舞われる恐れがあるのだ。特に、海外移住などを考えて、5年間や10年間などの長期滞在ビザの取得を目論んで、ロングステイを始めた場合には、悲惨な結果となる場合があるのである。途中でロングステイがいやになったりしてロングステイをあきらめ、現地に投下した資金の回収もできないで、夢に描いたセカンドライフを惨めにも後悔の念の淵に沈めることになる場合がるのだ。

その結果として、臨床心理学で言う自我防衛機制の合理化などが発生する。あのイソップ物語にでてくるキツネの「すっぱいブドウ」の反応のようにである。自分がその海外で生活を始めたのは、そこが素晴らしいからだ、楽しいからだ、そして、便利で快適だからだ、と自分に言い聞かせながら、長い日々を過ごすことになる恐れがあるのである。

それを回避するためには、事前に入念な現地調査を自らが行い、できるたけ客観的な目で異文化の様相を捉えておくことが必要なのだ。海外ロングステイで失敗しないためには、ロングステイ先の現地調査を、異文化の様相を探求する視点で行うことが必要なのである。

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音楽映像としてのシャキーラの芸術性

シャキーラ(Shakira)の歌と踊りは、南米の軽快なポップスのリズムに乗り、聴く者の心を弾ませる。彼女は、南米コロンビア生まれで、スペイン語を母語としているが、英語の歌も歌う。その代表的な歌曲名は”Whenever,Wherever”である。

ところが、この歌と踊りは、日本では、猥褻(わいせつ)であるという批判でもあるのであろうか。現在、無料動画サイトのユーチューブ(YouTube)の画面の上部に「このビデオは、あなたの国では利用できません」という意味の英文表示が出て、この歌の再生回数2千600万回を超える英語バージョンのものが再生不可となっているのだ。

しかし、この”Whenever,Wherever”のスペイン語バージョンが再生回数300万回以上のものでUPされているのと、この歌曲を風刺したパロディーが1千600万回以上の再生回数でUPされているのを考えると、権衡を失すると思うのだが、不思議な対応である。これはビデオ会社の方針なのであろうか。

シャキーラの歌と踊りは、グローバルな観点からみると、無料動画サイトのユーチューブで見られるフランス・パリのムーランルージュのショーや、ブラジル・リオのカーニバルの映像と比べても、決して猥褻ではない。それは、優れた芸術である。

次に、シャキーラの”Whenever,Wherever”のURLとして、次の2つを例示する。なお、下段の方は、現在、再生不可になっている再生回数2千600万回超の同名のコンテンツのURLである。

http://jp.youtube.com/watch?v=7z723RavRpw

http://jp.youtube.com/watch?v=F-3brRCRsA8 

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無料動画2千2百万回超の再生回数を誇るシャキーラの歌とは?

ラテンアメリカ・コロンビア出身の女性歌手、シャキーラ (Shakira) の代表的な歌、Whenever, Wherever の一つのアイテムが、無料動画サイト YouTube に再生回数22,212,096回でカウントされている。今朝、Akkii が再生した時点の回数である。1ヶ月前の5月29日の再生回数は19,833,902回であったから、ひと月の間に2,370,000回以上、再生回数が増えたことになる。この人気度はすごい。

シャキーラを Wikipedia で検索すると、彼女の職業は、歌手、シンガーソングライター、音楽プロデューサー、慈善活動家、ダンサー、俳優となっている。すなわち、彼女は、シンガーソングライターとしても活躍しているのだ。

シャキーラは、音楽DVDに代表される音楽映像の時代の申し子的存在であるということができる。なぜならば、彼女には、艶(つや)と響きがあり、時として哀愁を奏でる声量豊かな歌声があるばかりではなく、多種多彩なダンスを踊れるというアクションがあるからである。映像を見ながら歌を聴いていると、歌を音としてだけを聴いているときよりも、五感の充実度が違う。

シャキーラのダンスを猥褻(わいせつ)であると評する穿(うが)った見方もあるらしい。しかし、グローバルな観点から、シャキーラの歌とダンスを見てみると、それは芸術であって、決して猥褻などではない。フランスのムーラン・ルージュのショーやブラジルのリオのカーニバルと比較しても、それらは決して猥褻などではなく、優れた芸術である。

  シャキーラの歌と踊りは、いろいろなジャンルにまたがり、その歌と踊りの多種多彩さには、目をみはるものがある。次に、YouTube にUPされているシャキーラの歌と踊りのアイテムを例示するので、これらを比較しながら一度、ご覧あれ! これらを見れば、シャキーラの多才さが分かるであろう。

 1. Whenever, Wherever       再生回数22,212,096回
 2. Shakira          再生回数11,722,937回

  3. Sexy Shakira            再生回数 6,771,438回

  4. Objection (Tango)          再生回数 5,738,096回
 5. Ojos Asi         再生回数 5,713,452回
 6. Dia De Enero         再生回数 3,701,618回
 7. Underneath Your Clothes  再生回数 1,928,843回

 8. Hay Amores        再生回数   841,379回

 9. Pure Intuition           再生回数   698,924回           

※上記のうち、2と3の歌曲名は、"Hips Don't Lie"。

再生回数は、2008年6月29日に、Akkii が再生した時点のものである。

  上記のアイテムにたどり着くには、YouTube 検索画面で、Shakiraの文字の次にスペース(空白)を置いてアイテムをアルファベットで入力し、出てきた画面の上部の「並び替え順」を「関連度」から「再生回数」に変更して、検索する。すると、そのアイテムの中でも最も再生回数の多いアイテムが最上部に表示されるので、それをクリックする。同名のアイテムでも、再生回数が少ないアイテムには、お粗末なものがあるので注意を要する。そのアイテムの人気度を見るのには、再生回数が最も多いアイテムをクリックするとよく分かる。ただし、関係ないアイテムまでもが、シャキーラの人気にあやかろうとしてサイトに潜り込んでいることがあるので、それらは無視しよう。

なお、YouTube “Shakira” と入れて検索しただけでも、上記のうち、1~6までにはたどり着くことができる。Akkii のお勧めは、上記のすべてであるが、そのうち、7~9が特筆すべき内容を含んでいると思われる。ちなみに、8の “Hay Amores” は、日本ではこの7月に劇場公開予定の映画、 “Love in the Time of Cholera” (『コレラの時代の愛』)のBGMの形でも表現されている。

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HNKには、日本語をもっと正確に表現してもらいたい!!!

   最近、気になる日本語表現がある。それは、「なので」が会話文の文頭に出現することである。「なので」は、独立した接続助詞ではない。したがって、漫画的な表現は別として、これが、文頭に出てくるのは、正式な日本語ではありえない。

 今朝のNHKテレビを見ていても、「なので」が会話文の文頭にやたらに出てくるのが気になった。これは、ミャンマーの大型サイクロン被害に対する国際社会からの支援受け入れに関するニュース解説の中でである。

 「なので」は、「~なので」とは使われるが、文頭に出て使われる言葉ではない。日本語辞書を調べても、『NHK・日本語発音アクセント辞典(新版)』に当たっても、「だから」や「ゆえに」は出てくるが、「なので」という独立した語彙は出てこない。

いくらニュースキャスターとはいえ(正確な日本語を話すアナウンサーとは違うとはいえ)、国が主導する公共放送で、このブロークン・ジャパニーズ(壊れた日本語)が頻出するのはいかがなものであろうか。

 この「なので」が口語の文頭に使われるようになった背景には、中学校・高校で学習する数学の証明問題の解答の仕方があるという。証明問題の解答は、理由をつらつらと述べて、「なので」と書いて結論を表現するという。

したがって、「なので」が会話文の文頭に使われ出したのは、「なので」が独立した語彙であるかのように、数学の証明問題の解答の仕方に使われ出した以降であるらしい。これは、日本語教育学の研究を続け、ボランティアの日本語教師をしながら、中学生、高校生を対象とする学習塾を経営している友人から聞いた。

 この事実は、日本の国語教育は、国語ばかりではなく、理科や社会、数学をも含めた、体系的な言語規則の統一のもとに行われなければならないことを示している。

 それにしても、日本の公共放送を代表するNHKである。日本語に変な流行的表現を蔓延させる元凶をなすべきではない。また、一部で使われている表現を頻出させて、これを日本語表現に固着させるべきではない。日本語表現にはもっと丁寧で、正確な取り扱いをしてもらいたいものである。

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